日本史

猪の早太【いのはやた】
源頼政の腹心の部下。近衛天皇の命により、頼政について鵺退治に向かう。【平家物語】
織田 信長【おだ のぶなが】
戦国時代の武将。信秀の三男。1560年、今川義元を桶狭間に破って勢威をつけ、以後諸群雄を攻め従え、73年将軍足利義昭を追放し室町幕府を滅亡させた。安土城を築いて全国統一に乗り出す。寺社など中世的権威を破壊する一方、貿易の奨励、楽市・楽座の設置など革新的諸事業を断行したが、雄図半ばで明智光秀の急襲を受け、本能寺で自刃。【大辞林】

桔梗御前【ききょうごぜん】
平将門の妾。夫を裏切り、藤原秀郷に将門の弱点を教え、将門は討たれる。その後、秀郷に口封じのために殺害される。
熊谷 直実【くまがや なおざね】
鎌倉初期の武将。武蔵国熊谷の人。通称二郎。石橋山の合戦では平家方だったが、のち頼朝に仕え、一ノ 谷で平敦盛を討った。久下直光と所領を争い敗れて出家、法然の門に入った。法号蓮生。【大辞林】

静御前【しずかごぜん】
源義経の愛妾、白拍子。義経に協力し、堀河夜討では事前に敵宅に密偵を放つ。義経とともにの都落ちするも、女人禁制の吉野山で別れる。鎌倉方に捕まり訊問を受けるが何も答えず、義経への愛慕をつらぬく。
白拍子【しらびょうし】
静御前

平 敦盛【たいらの あつもり】
平安末期の武将。経盛の子。一ノ 谷の戦いで熊谷直実に討たれた。笛の名手。能・幸若舞「敦盛」の素材となった。【大辞林】
平 清盛【たいらの きよもり】
平安末期の武将。忠盛の長男。通称、平相国。法号、浄海。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元・平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ、官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。他方、地方武士に離反され、源頼朝ら反平氏勢力が挙兵、福原に遷都したが熱病のため没した。【大辞林】
平 重盛【たいらの しげもり】
平安末期の武将。清盛の長子。通称、小松内府・小松殿・灯籠大臣。保元・平治の乱で功をあげ、従二位・内大臣にのぼった。性温厚で、道理を重んじ人望があったが、一門全盛期に病没した。【大辞林】
平 忠盛【たいらの ただもり】
平安末期の武将。正盛の子。清盛の父。白河・鳥羽院の寵を得て累進、山陽・西海の海賊を討って平氏の名を高め、刑部卿に進んで内昇殿を許された。日宋貿易によって一門繁栄の基礎を築く。【大辞林】
常磐御前【ときわごぜん】
源義朝の妾、義経の母。近衛天皇の中宮・九条院の雑仕女。源義朝に寵愛され、三人の子を産むが、平治の乱で源氏が滅亡。敵将・平清盛に召される。のちに藤原長成と再婚。
巴御前【ともえごぜん】
平安後期の婦人。木曾義仲の側室。知勇にすぐれ、義仲に従ってしばしば戦功をたてた。のち尼となり、越後友松に住んだという。義仲が源義経らに敗れて近江へ逃れた時の奮戦は有名。生没年未詳。【大辞林】

源 義経【みなもとの よしつね】
平安末・鎌倉初期の武将。義朝の九男。母は常盤御前。幼名、牛若丸・九郎・遮那王。検非違使に任ぜられたので九郎判官とも。平治の乱後、鞍馬寺に預けられ、のち奥州平泉の藤原秀衡の保護を受けた。1180年兄頼朝の挙兵に応じて84年源義仲を討ち、一ノ 谷・屋島・壇ノ 浦に平家一族を破った。のち後白河院の信任を得て頼朝と対立、再び秀衡のもとに逃れたが、その子泰衡に襲われ、衣川で自刃した。悲劇的な生涯が伝説や文学作品の素材となって後世に伝えられる。【大辞林】
武蔵坊 弁慶【むさしぼう べんけい】
平安末・鎌倉初期の僧。「吾妻鏡」「義経記」などの伝えるところによれば、熊野の別当の子で比叡山西塔で修行し武蔵坊と称して武勇を好んだ。のち、源義経に仕えた。義経の奥州落ちに従い、安宅関、衣川の合戦などでの武勇は能・歌舞伎などに多く脚色された。【大辞林】

蕨御前【わらびごぜん】
関白・平時忠の娘。壇ノ浦で平氏滅亡の際、保身をはかりたい父・時忠の思惑により、源義経のもとへ贈られるが、のちに時忠とともに能登に配流される。

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